ちょっとためになるヒューマン・ヒストリー

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夢見峠~ある戦国武将の悲劇~

  戦国武将にとって「諏訪」(すわ)あるいは「諏訪大明神」(すわだいみょうじん)という言葉には、背筋がピンと伸びるような、格別の響きがあったのではないだろうか。なにしろ諏訪大明神は「戦いの神様」だからだ。日本最古の神社の一つである信州の諏訪大社(長野県諏訪市)は、全国各地に1万以上ある諏訪神社の総本社で、祭神は「日本第一大軍神」とあがめられている。信州・諏訪より勧請した分社で戦勝を祈願したのち、合戦におもむくのが当時の武将たちの日常だった。

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諏訪大社の上社。凛とした空気が流れる

 

  諏訪大社は上社、下社など諏訪湖周辺にある4つの宮からなっている。古代からこの宗教都市を治めていた諏訪氏は、武士と神官双方の性格をあわせ持つという、日本史上類をみない特徴があった。武士としてはごくふつうの地方豪族である一方、諏訪大社上社神職「大祝」(おおほうり)としては絶対的な神秘性をそなえていた。その身は神霊の肉体的表現(現人神)とみなされており、この大祝の座にある諏訪一門の者は、神域である諏訪郡から外に出ることすらタブーとされていた。

 

 きょうの主人公である高遠頼継(たかとお・よりつぐ)は戦国時代の中ごろ、諏訪氏の一族として信州・高遠でうまれた。高遠継宗(たかとお・つぐむね)の嫡子とされるが、生年はわかっていない。彼のあゆみをみると、「諏訪」を過剰に意識した強いプライドの持ち主であったようにおもえる。

 

 諏訪と高遠の位置関係を説明したい。いずれも信州中部に位置し、直線にして約20㎞の距離にある。諏訪盆地と山間の高遠の間を行き来するには標高1,247mの難所「杖突峠」(つえつきとうげ)をこえなければならない。とくに諏訪側からはつづら折りの険しい山道がつづく。

 

 高遠氏の出自は複雑だ。頼継から数代さかのぼると、南北朝時代に諏訪本家の惣領だった頼継(きょうの主人公と同名だが別人)にいきつく。本来なら、頼継の嫡男の信員(のぶかず)が惣領家を継ぐはずだったが、南北朝の混乱のあおりで、信員は高遠に一家を構え、惣領家は一門の別の人間が継ぐことになった。きょうの主人公である頼継の思想の底流にある「高遠こそが諏訪の直系である」という意識の出発点はここにある。

 

 「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)という言葉を耳にしたことがあるだろうか。「復讐を成功させるために苦労に耐える」といった意味だ。19世紀末、日清戦争に勝利した日本が清国から領土を獲得したにも関わらず、欧米列強から強い返還要求をうけ、泣く泣く手放したときに国民の間で流行った言葉でもある。頼継のあゆみをみると、この表現がふさわしい。

 

 文献をひもとくと、父・継宗や頼継はなんども杖突峠をこえて、諏訪に攻め入った様子がえがかれている。文明16年(1484年)には「小笠原政貞ら300余人を率いて杖突峠を下り、磯並前山に布陣、諏訪惣領家の討伐をはかった」とある。さらに文明19年(1487年)にも諏訪に侵攻し、有賀で惣領家勢と戦った。だが、高遠勢が勝利したという記録はない。

 

 時機が悪かった。15世紀後半から16世紀にかけて諏訪惣領家では中興の祖といわれる諏訪頼満(すわ・よりみつ)が台頭し、周辺の豪族を次々と傘下に従えていた。反抗していた頼継もついに息の根を止められ、諏訪惣領家の衛星になった印として頼満の娘を娶ることになった。わざわざ本家の証である「諏訪姓」や「信濃守」を自称するほどの頼継である。複雑な気分で新妻を迎えたことだろう。

 

 濃い霧がすっと晴れるように、頼継に挽回の機会が訪れたのは、ずいぶん後になってからだ。隣国の武田晴信(たけだ・はるのぶ、後の信玄)が甲州一国を平定させ、次なる狙いを諏訪に定めようとしていた。当時、諏訪惣領家の当主は中興の祖である頼満の孫、頼重(よりしげ)だった。晴信は頼継にこんな悪魔のささやきをした。

 

「一緒に諏訪頼重を攻めないか」

 

計略好きな晴信はこんな言葉を吐いて頼継をその気にさせたかもしれない。

 

「諏訪家の真の継承者は高遠頼継ではないのか」

 

 歴史は非情なものだ。晴信が2万の大軍をひきいて上諏訪に入ったのが天文11年(1542年)の6月24日。晴信に呼応して頼継も杖突峠をこえ、諏訪方の大熊城にせまった。大熊城をおとしいれた頼継と合流した晴信が、頼重の立てこもる桑原城を囲んだ7月3日は、激しい風雨だった。降伏した頼重は晴信の命を受けて甲府切腹した。27歳だった。

 

 頼継が長年、目の敵にしてきた諏訪氏の系統は滅んだ。頼継はなにを思っただろう。名実ともに名門を継承する立場となった頼継の心理には「晴信とるにたらず」という過信がうまれた。晴信がすすめた戦後処置に不満をあらわにした。

 

「宮川(諏訪の中央部を流れる川)より西は高遠、東は武田という晴信の領地分配は不公平だ」

 

長年の野望をかなえた人間はその瞬間、次なる野望にとりつかれる。暗い海の底から噴き出すマグマのように際限なく欲を膨らます。

 

 頼継が晴信との同盟を破り、突如として武田方の上原城を攻めたのは同じ年の9月のこと。頼継の裏切りを知った晴信の動きは速かった。頼継の性格をみぬき、事前に行動を予想していたようにもおもえる。武将としての力量は晴信の方が一枚上手だった。

 

 武田勢と高遠勢が衝突したのは諏訪の宮川橋一帯だ。5時間ほどの戦いで、高遠勢は頼継の実弟である高遠頼宗(たかとお・よりむね)ら700~800人が討ち取られる大敗を喫した。命からがら逃げ帰った頼継がふたたび諏訪に足を踏みいれることはなかった。

 

 頼継の栄枯盛衰を見届けた杖突峠にはいま、展望台が整備され、諏訪湖が手にとるように一望できる。

 

 頼継のその後の軌跡を簡単に紹介しておく。一時、武田家に仕えたが、最終的には晴信に切腹を命じられ、自害して果てた。本家の諏訪頼重の死から10年後の秋のことだった。

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杖突峠から諏訪盆地を臨む。頼継はこの道を何度も通った